『今昔物語』 生明恒一郎さん(Dr)

■早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラ
1990年 第21回大会出場(優秀賞受賞)
1991年 第22回大会出場(最優秀賞受賞)
※2006年、第37回大会に寄稿された文章を当時のまま掲載しています。
僕の人生最大の「衝撃」・・・それは1985年の夏にたまたま山野BBJCでみた慶大ライトの演奏である。後にも先にも、あのときほどの「衝撃」は無いと言っても過言ではない。何故ならそれは僕のその後の人生を決定してしまうほどの「衝撃」だったから。当時高校1年生。あのとき聴いた「Yes or No」はそれまで僕が経験したことがない、初めて知る「最高にカッコいいもの」だった。吹奏楽しか知らなかった僕にとって、そのサウンドはあまりにも衝撃的すぎて、僕はすぐにブラスバンド部を辞めた。吹奏楽なんて演っている場合じゃないと思ったし、将来自分があの慶大ライトでドラムを叩かないといけないと思ったし、なによりそのためには慶應大を目指して勉強を始めないといけないと思ったから。いや、誰に強制されたわけでもないのだが、そのときはそうでないと「いけない」と思ったのだから仕方がない。
その後、残念ながら慶應大にご縁は無かったが、そのときライトが与えてくれた「衝撃」のおかげで早稲田大に入学してハイソに入部、以後、起きている時間の殆どをジャズのことやビッグ・バンドのことだけ考えるという生活になった。上級生になってからは更に拍車が掛かり、楽器以外のこと、例えば「単位」とか「就職」、更には「卒業」にさえ、あまり関心が無くなっていった。僕の同期やひとつ下の愛すべき仲間たちも皆同じだったようで、留年率90%以上という当時のハイソ部員の状況がそれを物語っている。
そんなハイソにとって山野BBJCはあくまでも最優秀賞を目指す場所だった。当時、「最優秀賞を逃した時のハイソは態度が悪い。審査員や他の出場バンドに失礼であり、もっと大人の対応を見せるべき」と言われていたようで、今でも関係者から昔話としてそのことを言われたりすることがあるのだが、僕たちは決して審査に不満があったわけでは無く、自分たちの力が及ばなかったことが悔しくて喜ぶことが出来なかった・・・ただそれだけだった。
ともあれハイソで山野BBJCに挑むという経験が僕にもたらしてくれたものは大きい。「目標達成のためのプロセスはバンドも仕事も同じ」というのはいまも僕の考え方の基準になっていて、それはものすごく突き詰めると、ひとつひとつのことに対して「誠心誠意ひたむきに」という単純なことだったりする。でも目標達成とは全く別に、そのプロセスの中には何物にも代えがたい素晴らしいものが内包されている。同じ目標に向かって物事を一生懸命取り組む中で、本当の友情や信頼関係が芽生えるということだ。そしてそれは一生懸命取り組めば取り組むほど、より強固なものになるということだ。
「音楽」によってもたらされたものばかりである。人と社会のGIVE&TAKEを考える。僕は社会がTAKEさせてくれた「音楽」との関わりによって、人一倍大きな恩恵を受けてきたと思う。だからこそ今度は僕が社会に対して「音楽」をGIVEしたい、「音楽」を社会に与える仕事がしたいと思った。BMGに入社したときのその思いは、いまでも全く変わっていない。その中心にはいつもビッグ・バンドへの愛情があり、それを直接的な形で僕に与えてくれたのは山野BBJCだった。「自分は社会に対して何を与えたいのか」「自分は社会に対して何を与える会社で働きたいのか」。これを与えたいと「誠心誠意ひたむきに」意志を持ってなされた仕事こそが人の人生を決定づけるほどの感動をもたらすのだと思うし、そうした意志が山野楽器という会社に脈々と流れていることを僕は感じる。このコンテストが37年も続いているという事実はそれを雄弁に物語って余りある。僕はその強い意志に深い共感を覚える。僕にビッグ・バンドを与えてくれて、更にはその後の生き方さえも与えてくれた山野BBJCへの感謝の気持ちはまだまだ語り尽くせない。